津軽三味線とは
三味線の歴史

日本の伝統楽器と言われる三味線のルーツを辿っていくと紀元前の中国にまで遡ります。 まず紀元前の中国、秦の時代に存在した「シェンタオ」という弦楽器が時代と共に変化して行き、13〜14世紀頃の明の時代には「三弦(サンシエン)」と呼ばれる楽器になりました。 三弦はその名の通り弦が3本あり、胴体部分は蛇皮が貼られている楽器でした。 主に歌の伴奏に使われており、単独で演奏されることはあまりなかったようです。
14世紀末頃にこの三弦が交易によって琉球王国に伝わり、形はほぼそのままに独自に発展していったものが今でもよく知られている「三線」です。 三線は15世紀頃より現在に至るまで主に沖縄にて人々に親しまれ続けています。

三味線の誕生

その三線が16世紀頃に日本と琉球王国の貿易によって日本に伝わり、そこからおよそ半世紀程の間に改良されて生み出されたのが三味線です。歴史としては500年程であり、日本の伝統楽器という分類の中では最も新しいものの1つになります。
三味線は三弦や三線と違い、胴体部分は犬や猫の皮が用いられることが多くありました。 これは当時の日本では犬や猫の皮が最も入手しやすかったことに起因しています。 現存する最古の三味線は1596年頃に豊臣秀吉の命令で作られた「淀」と呼ばれる三味線ですが、この時点で既に形は現在の三味線とほぼ変わりありません。
最終的には17世紀頃の江戸時代に現代の三味線と全く変わらない三味線が完成しました。

三味線の流行

その後、260年続く江戸時代という平和な世の中を背景に三味線は一気に広まっていきます。 初めは都市部の上流階級が嗜むものでしたが、やがては庶民階級、そして地方までにも広がり、独自の発展を遂げました。 当時は三味線を弾けるものは異性から人気が出ると言われ、習い事として非常に人気があったとされています。 特に女性は三味線などの芸事に秀でると上流階級の家に嫁げる可能性すらもありました。
また、三味線の文化形成や流行には盲人が大きく貢献していたとされています。 三味線の実質的創始者は石村検校(〜1642)と伝えられていますが、この「検校」とは盲官(盲人の役職)の最高位のことです。 そもそも日本では鎌倉時代の頃より盲人は楽器を演奏することで生計を立てるという文化がありました。 三味線もまた盲人が生活のために演奏することが多くあり、特に盲官として出世するには三味線の技能は非常に重要だったのです。

津軽三味線の誕生

三味線が東北に伝わり、津軽三味線というジャンルが確立していったのは、明治の初期と考えられています。 津軽三味線の歴史は150年ほど。 伝統芸能としては、まだまだ新しいジャンルでもあります。
瀬戸内海から北海道の松前まで、日本海側を航海していた北前船。 各地で積み込んだ積み荷を売買する貿易船ですが、商品だけでなく文化を伝える役割も担っていました。 西の楽器だった三味線が、北国に伝わり民謡にも変化をもたらしたのです。
津軽三味線は即興演奏が基本のため、譜面も、文献も残っていません。 その発祥や歴史に関して、はっきりわかっていない点が多々ありますが、原型は新潟県で活躍した瞽女(ごぜ・目が不自由な女性芸能者)の楽曲だと考えられています。
それが津軽のボサマ(目が不自由な男性旅芸人)に伝わり、家々の軒先で三味線を弾き米やお金を受け取る「門付け芸」として広まっていきました。 演者たちは他の人よりも目立とうと音を大きくし、速弾きのテクニックを磨いていきました。 そのために三味線自体は大きくなり、バチは小回りが利くように小さく変化していったのが、今の津軽三味線なのです。




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